青森県近代文学館
The Museum of Modern Aomori Literature




太宰治の旧制高校時代のノートについて

安 藤  宏 (東京大学准教授)

 太宰治の肉筆資料に関しては、没後半世紀以上を経て情報の整備が大いに進み、関係者の協力のもと、これまで数多くの草稿・手帖・書簡が公開、翻刻されてきた。もっともこれ以外にもなお注目すべきものがいくつか知られており、いわば残された最後の「宝庫」と言われてきたのが、旧制高校時代の自筆ノートである。この中には句作や同人誌の構想が記されているものもあり、学生時代の文学的自己形成をうかがうことのできる貴重な資料として、かねてより注目されてきたのである。つごう十点前後が現存するといわれているが、これまで太宰治展などに部分的に出品され、各種図録などに写真が紹介されることはあったものの、具体的な内容を調査することは不可能であった。このたび「英語」と「修身」のノート二冊(以下、「英語」「修身」の語をもってそれぞれの仮称とする)の全容が公開されることになったことを喜びたいと思う。

 太宰治の生家の津島家は青森県下有数の大地主で、太宰の父、津島源右衛門は貴族院議員を務めた経歴を持つ。父は太宰が十五才の時に死去し、その後家長として、生涯にわたって父親代わりを勤めたのが、長兄の故・津島文治氏(一八九八〜一九七三)であった。氏は父のあとを継いで政治家の道を歩み、金木町長、青森県議会議員を経て、昭和十二年に衆議院議員に当選、戦後、再び衆議院議員に当選したあと初の民選知事に選ばれ、昭和二十二年から三十一年まで青森県知事の要職にあった。厳格な人柄を以て知られ、心中事件や左翼活動を繰り返す弟・修治(太宰治)を昭和五年に分家除籍していた経緯もあって、後年も「太宰治」が話題になることをあまり好まなかったと言われている。

 文治氏は金木町の生家で保存していたノート類を県立図書館長、副知事等の要職を勤めた横山武夫氏に託すのだが、その横山氏は、ノートに関して次のような回想を残している。

 図書館長をしていたある日。先生(注ー津島文治)はひょっこり、館長室に入って来られた。先生は知事を退かれて、国会議員であった(注ー昭和33から38年まで衆議院議員、昭和40年から48年まで参議院議員の職にあった)。「これはアンタにあげでオグのが一番いいド思って、もってキシタジャ」。それは令弟太宰治の日記帖と大きな信玄袋に入った青森中学校、旧制弘前高等学校時代の教科書やノート等であった。信玄袋には、小さな白地の布に津島修治と名前の墨書がついていた。今までは自らタブーのように沈黙を守って来られた令弟太宰治のことを、奇しくも先生は、亡くなられる直前に、雑誌の「噂」の編集者に語っていられるが、その談話のなかでも、このことをご自分でも話されている。(「君が心根(こころね)何ぞ」『清廉一徹』津島文治先生回想録編集委員会編、昭49・5)
 参考までに、右に言う文治氏の談話とは次のようなものである。
 私は、財産を失っちゃったもんだから引っ越してばかり歩いていましたが、つい先年、リュックサックに入った彼(注ー太宰治)の中学時代の教科書が荷物の中からドサッと出てきたのです。それは、さきほどの横山武夫さんに差しあげましたが、どのページを開いてもイタズラがきだらけなんです。ペンで先生の顔やら、兄弟の顔らしき似顔絵やらが、各ページにぎっしり描かれているのですーーあれでは、先生の講義も満足に聞いていなかったんでしょう。これをもってしても、決していい生徒≠ナなかったことがわかるんです。(「肉親が楽しめなかった弟の小説」「噂」昭48・6)
 中学時代の教科書も含め、これらの貴重な資料は長い年月のうちに分散し、今日に至るまでその実態が充分にはつかめていないのが実情であった。今回のノート二冊は、平成十八年四月二十九日に弘前市で太宰治の高校時代の下宿が移築、公開された折、そのオープニング・セレモニーとしてコピー五枚が公開され、その後、青森近代文学館が委託管理するに至ったものである。

 「英語」のノートから解説に入ることにしよう。
 使われているのは横罫線二三行の大学ノートで、表紙左上に弘前高校の校章が刷り込まれ、裏表紙に「今泉本店(注ー弘前市内の主要な書籍店)特製」の標記がある。サイズはA4版に近い縦二一〇ミリ、横一六五ミリ。表紙に「Johnson & Goldsmith/Essays by/T.B.Macaulay/The Hirosaki High School/L.1.1/S.Tsushima」と記入されている。太宰は昭和二年の四月に文科の一年一組に入学しており、「L.1.1」とあることから、第一学年時に使用されたものであることがわかる。
 太宰は県立青森中学校(旧制)を百四十八名中四位の好成績で卒業しているが、進学にあたっては第一志望であった東京の第一高等学校をあきらめ、地元の弘前高等学校に進学している。弘前高校は大正十年の開校で、太宰は第七回生。入学した文科甲類は英語が第一外国語(第二外国語はドイツ語)で、一学年に二クラスあり、乙類はドイツ語が第一外国語で一クラスであった。文学、哲学系を希望する学生は比較的乙類に多く、甲類は官吏等を目ざす学生が多かったという。太宰が甲類を志望したのは、長兄が官吏に進む道を望んでいたこととも関連するのであろう。
 『弘前高等学校一覧 自昭和二年四月至昭和三年三月』によれば、甲類の英語は週に九時間であった。昭和二年度の弘高の英語担当教員は教授が名須川良、久野真吉、西宣雄、長谷川誠治、外国人教師がジイ・パーシー・ブルール(G・P・Bruhl)、講師が伊藤政市(太宰のクラスの主任であった)という布陣である。なお、このうちブルールが担当していた英作文の授業は有名で、毎時間、最初の十五分か二十分、自由英作文を課し、太宰の作文が教師や級友の称賛を浴びていた事実はのちの小説『猿面冠者』(「鷭」昭9・7)の題材にもなり、また、この時の作文十点も現存している(『太宰治全集』に翻刻、収録)。
 なお先の『一覧』によれば、英語の授業は「発音」「綴字」「読方読解」「話方」「作文」「書取」「文法」からなっているが、このノートには文学作品の現代語訳が記されているので「読方読解」に該当するものであろう。教科書として使われたのは、T.B.Macaulay(一八〇〇〜一八五九)の“Johnson & Goldsmith”で、バージョンは教材用に注釈や解説が付された“Johnson & Goldsmith/essays by Thomas Babington Macaulay ; ed.by William P.Trent The Riverside literature series : no.102 Boston:Houghton Mifflin Company Co. 1906”なのではないかと推定される。
 ノートは51頁まで使用されたあと、最後から天地逆に再び使用され、六八頁分が使用されて双方が落ち合う形になっている。
 前書きや解説、注を除くと、テキストは大きく“Samuel Johnson”と“Oliver Goldsmith”という二つの章から成っているが、ノートの方は43頁までが“Samuel Johnson”、44頁から51頁までが“Oliver Goldsmith”に宛てられ、それぞれの文学者の評伝が和訳されている。なお、18頁までが一学期、19頁以降が二学期なので、一年のかなりの割合が“Samuel Johnson”の章の読解に費やされ、“Oliver Goldsmith”の章に関してはテキストの六九〜九一頁のうち七三頁前後までで中断している。これ以降の天地逆に記されている部分は、先の“Johnson & Goldsmith”とは異なるテキストの和訳であろう。一人称「私」を語り手に、Pele(ペレー)を主要人物とした物語になっている。

 太宰の成績は入学後、甲類一ノ組三十八名中の席次(入学成績順)は六位であったが、二年に進級した時点では三十五人中三十一位にまで急降下している。
 一年の夏に義太夫を習い始め、青森市の花柳界に通って放蕩を始めるなど、学業放擲に近い形になるのだが、こうした急激な変化の背景として、たとえば七月の芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受けた事実なども指摘されている。自殺の直前に芥川が青森に講演に来て、太宰が直接これを聞きに行った事実などもあったようだ。入学後半年もたたぬうちに何か急激な変化が太宰の中でおこっていたと考えられるのだが、ノートを見ていると、二学期以降の記述がより乱雑に、落書きの割合も増えているように見えるのは先入観のなせるわざであろうか。
 テキストの“Johnson & Goldsmith”は、イギリスの文学者、S・ジョンソンとO・ゴールドスミスの二人をそれぞれ評伝形式で論じたT・B・マコーリの著作。マコーリはイギリスの政治家(陸軍大臣を勤め、男爵になった)、歴史家として知られ、『英国史』等の著書をはじめ、我が国でも明治以来、多くの読者を獲得している。また、評伝としてとりあげられているSamuel Johnson(一七〇九〜八四)は、イギリスの詩人、批評家。シェークスピアの校訂・注釈、『詩人伝』などの著作で知られるが、四十代で文名が上がるまでさまざまな職に手を染め、生活上の貧窮と闘い続けた。Oliver Goldsmith(一七二八〜七四)もイギリスの詩人、小説家、戯曲家で、アイルランドの牧師の子に生まれ、苦学して聖職、法律家、医者を目ざしながらいずれも失敗。各地を放浪し、三十代半ばで世に出るまで、これまた苦難の人生を歩んだ。こうした二人の姿を評伝形式で描き出したこの教科書は、文学者が自らの才能を自得し、世間に認められていくまでの「業(ごう)」、という観点から、太宰の文学観に何らかの影響を及ぼしたものと考えられる。
 ちなみに後年の太宰の小説『春の盗賊』(「文藝日本」昭15・1)には、〈私は幼少のころから、ゴオルドスミスといふ作家を、大いに好きで仕様がない〉という一節があり、代表作の一つ、『ウェークフィールドの牧師』の内容が紹介されている(ちなみにこの内容は昭和十二年刊行の岩波文庫版『ウェークフィールドの牧師』をふまえたものであろう)。ただし〈幼少のころから〜大いに好きで〉とは言っても、日本語訳で触れることのできた可能性のあるのは『世界短篇小説大系 英吉利篇上』(近代社、大15)ぐらいのもので、これとて刊行時期は高校入学前後である。『春の盗賊』のこの記述は、あるいは高校時代のこの英語の授業で読んだ評伝が記憶に残ってのものなのではあるまいか。『春の盗賊』は小説家としての自らの行き詰まりをテーマにした作品だが、そこに文名を挙げるまで艱難辛苦の道をたどったゴールドスミスが登場するのも、単なる偶然とは思われないのである。
 「英語」のノートには、実に多くの箇所に落書きがあるが、その大半は肖像画(4〜8、14、19、27〜30、34、36、40、41、43〜45、47、53、57、59、73、83、86、裏表紙など)と、英語・日本語による自己の署名(3、58、59、86など)である。ジョンソンとゴールドスミスという二人の文学者が文名をあげるまでのプロセスに思いを致しつつ、自画像や、来るべき文壇デビューに備えてのサインの練習(?)を繰り返している様態は興味深い。小説家として歩むべき困苦の人生をあるいは彼なりに想像し、思いめぐらしていたのであろうか。残されているノート類は無論、全体の一部にすぎないので、この二人の文学者に対する太宰のそれなりの愛着が、あえてこのノートの保管へとつながったものとも考えられるのである。

 当時、多くの高等学校がそうであったように、弘高でもまた、ノート主義≠ニもいうべき風潮が支配的だったようだ。あたかも速記術を思わせるような口述筆記が授業の中心をなし、それが学生にとって大きな負担になっていたようである。参考までに当時の『弘高新聞』(創刊号、昭和三年六月五日発行)に「ノート制度廃止論」という、匿名記事があるので、関連部分を抜き書きしておくことにしよう。

〈私が、否私のみならず私の知つて居る大部分の人が我が弘高に於て最も不平を持ち、そのこコンセンスを痛感して居るものの一つにこのノート制度がある。〉〈第一に急速にノートを取る為に、又穏急の度合が一定しない故に誤字や聞き違ひやブランクが兎角多くその訂正やら埋め書に徒な時間を浪費し、或人の如きは夜には自分のノートを読むのに気の毒な位骨折つて居る人もある。そしてその様な人にあつては復習などと云ふことは時間の関係上やりたくても到底出来ないのである。又急速に筆記する為に我々の如きものはその時間内にその内容を理解することが少なく、唯単に筆記の機械の如くペンを走らすに止る。〉〈かくの如くノートを作る事それだけで苦しんで居るのであるからその日その日にノートを読んで理解して置くと云ふ事は一般に少く多くの人にあつては試験の一週間乃至二週間前に読む位である。〉
 この一節を踏まえ、あらためて今回のノートを見返すと、当時の旧制高校の講義風景が彷彿としてくるようだ。「英語」の場合、場所によってはほとんど意味をなさない文言がとびとびにメモされているばかりで、授業ではかなりの速度で日本語訳が進んでいたようである。教師が用意した論文をそのまま読み上げる形式が中心であったことは、次の「修身」のノートが演説体の文語であることからもうかがい知ることができよう。

 「修身」もやはり「英語」同様、横罫線二三行の大学ノートで、弘高の校章が刷り込まれ、サイズも同一である。ただしこちらは「今泉本店特製」ではなく、「神書店製」の標記。表紙に「修身/宮城教授/弘高/文 二 一/津島修治」の記入がある(「二」の漢数字は白黒の画像だと「三」に見えるが、実際は「二」である)。昭和三年度、太宰の第二学年時のものと考えられよう。38頁まで使われ、あとは白紙。なお、ノートの終わりの部分に七ページに渡る落書きがあるほか、「英語」同様、表紙、裏表紙、表見返し、裏見返しにも落書きがある。「修身」の科目は文理共通の三カ年に渡る必修科目で、週に一時間。担当の宮城敏夫教授は明治三十年に奈良に生まれ、京都大学文学部を卒業。立命館大学の教壇に立った後、昭和三年度と四年度に弘高の教壇に立った。このあと京都に戻り、龍谷大学、京都大学に奉職した後、平等院の院主を勤めた人物である。関西の文化を色濃く体現した教師に邂逅するのは、太宰にとっておそらく初めての体験であっただろう。

 「修身」のノートで真っ先に目にはいるのは、表紙に繰り返し記されている「辻島衆二」という書き込みであろう。この名は裏表紙と66頁にも見えるが、これは太宰が高校時代に用いていたペンネームで、高校二年の時に主宰していた同人誌、「細胞文芸」に掲載された文章にのみ、すべてこの名が用いられている。63頁に「細胞文芸」の名が三回書き並べられているが、同誌は昭和三年(太宰の高校二年時)の五月に創刊号を出し、同年九月に四号で廃刊された。創刊号に掲載された長編『無間奈落』は、ブルジョワである生家を内部から告発した自伝小説である。筆名「辻島衆二」は「辻」と「衆」の文字を本名「津島修治」にあてたもので、マルキシズムの影響のもと、自己をあえてプロレタリアートの側になぞらえて改名している形跡がうかがえる。太宰は「修身」の時間中に同人誌の計画を立て、そこで使うべき筆名の考案に余念がなかったわけである。

 この時期は全国の旧制高等学校に広く左翼運動の波が浸透し、同盟休校事件、学生検挙、放校処分が相次いだ時代でもあった。いわゆる「学連」(全日本学生社会科学連合会)時代(大正13・9〜昭和4・11)の旧制高等学校に身を置き、「三・一五」「四・一六」事件を同世代の一人として目のあたりにしながら自己形成を強いられた事実は、太宰文学の成立をさぐる上で看過することはできまい。後の再建共産党首領の田中清玄は、昭和二年の太宰入学と入替わりに弘高を卒業するのだが、すでに田中の在学中に校内左翼グループの拠点として社会科学研究会が組織されており、「三・一五事件」以後も、いわば非公認の形でその活動は継続していた。昭和四年二月の鈴木校長の公金費消事件に端を発した同盟休校事件、「弘高新聞」「校友会雑誌」の左傾化、昭和五年一月の社研メンバーの検挙、放校事件ーーこれらはいずれも当時新聞雑誌部の一員にあった太宰が、直接目のあたりにした事件の数々だったわけである。
 先に高校一年の夏を境に太宰が学業を放擲していく事実を指摘したが、その背景の一つには、こうした時代状況の下で、県下有数の大地主の子息に注がれた周囲のまなざしがあったのではないだろうか。
 当時の太宰治について、級友たちの回想をいくつか抜粋してみることにしよう。

  〈高等学校に入るとなかなか、津島一人の舞台とは行かなかった。その最も得意とす  る文学においても、上田重彦の如く彼と拮抗する者があり、演劇、映画、絵、学問一  般において彼をリードする者はいくらもあった〉(大高勝次郎『太宰治の思い出ー弘  高・東大時代』昭57、たいまつ社)
〈(津島は)政治思想の討論などとは一向に無縁な、孤独の存在のようであった。金木の大地主の子供だそうで、寮には入らず、下宿住まいをし、大島がすりに角おびをしめて、長唄のお師匠に通っているということである。ぼくのように中流以下の家庭に育ったものの尺度では理解がつかないし、ゆかりのないふしぎな存在として映ったのも、当然である〉〈上田の方からは、めったに名指しはしないけれど、絶対主義における地主制についての批判を通して、もし津島がその場に居合わせたらその胸を刺したでもあろうような攻撃があった〉(南部農夫治「回想の太宰治」「北方文芸」昭43・4)
 中学時代の級友たちに回想される、明るく活発な少年像とは別人のような相違があるのだが、こうしたまなざしの落差は、この時期の太宰に深刻な挫折感を育んでいくことになる。弘高は弘前市以外の居住者は寮生活が原則であったが、太宰の場合は母の意見もあって病弱を理由に寮には入らず、遠縁にあたる藤田豊三郎の家に下宿して通学していた。いわば特別の境遇にあったわけで、結果的には自らの出自が周囲との距離の出来る一因にもなったようである。

 「修身」のノートの内容は、まさにこうした時代思潮との緊張関係をうかがわせるもので、「学連時代」の旧制高等学校の授業内容をうかがい知る上でも、貴重な資料と言えよう。講義内容の大まかな構成は次のようになっている。
  吾人ノ国家観及ビ吾国体
  国家ト個人ナラビニ愛国心
  歴史上ヨリ見タル吾国ノ特性
  日本民族ノ外観
   1、日本の民族及国民(注ーここから〈第参学期〉とある)
   2、日本ノ国民国家
   3、日本社会運動ノ諸傾向ト我が氏族性(ママ)
 このうち「吾人の国家観及び吾国体」では、西洋の天賦人権思想を紹介した上で、あらためて「国家あっての個人」、という観点から微温的にその修正がはかられている。次に「国家ト個人ナラビニ愛国心」では、国家を認めぬ破壊的社会運動は抑圧されるべきだが、健全な運動にまで圧迫を加えるべきではない、という立場がとられている。ただしマルクス主義的階級観は誤りで、天皇と国民との関係は階級を超えたものなのだという。次の「歴史上ヨリ見タル吾国ノ特性」は、日本の国体の発生を奈良時代から平安時代にかけて探ったもので、各氏族の職能を生かした氏族相互の自由連合として天皇制が成った、とした上で、そこに日本の国体の独自性が求められている。「日本民族ノ外観」では、明治期に資本制に反旗を翻した社会党の歴史を振り返った上で、けれどもそれらはしょせんは外国の模倣にすぎなかった、とされ、「階級的、社会的に統一された理想的な氏族的国民国家」こそが今の日本に求められるのだとされている。そのためにも「国体(天皇制)」と階級の反映としての「政権」とを明確に区別する必要があるのだという。
 以上からわかるように、その内容は大筋において、大正期リベラリズムの衣を装いつつも、実際には左傾化していく学生たちを視野に、あらためて日本の国体、民族の独自性を説くことに力点が置かれている。記述からは、階級史観と国体との両立を説く微温的な折衷主義によって、当時左傾化しつつあった学生たちを隠微に「思想善導」していくニュアンスも感じられよう。もっとも弘高の教授の中には唯物史観を信奉する人物もいたし、すでに記したように学内には社研が組織され、同盟休校事件なども起こっていた。『校友会雑誌』などで、明確に階級闘争に主眼をおいた学生論文が掲載される中で、当時の左翼学生たちがこうした微温的な国体論をそのまま納得したとは考えがたい。階級的相克意識に苦しむ太宰は果たしてどのような思いでこの授業を受け止めていたのであろうか。試験前に引いたとおぼしき赤線の痕跡などとも合わせ、やはり気になるところである。

 「修身」のノートで、もう一つ目につくのは、「英語」と同様、落書きとして数多く書かれた人物画であろう。特に71頁の自画像とおぼしき画は力作≠ナ、太宰の愛読者の多くは、たとえばここから、のちの『人間失格』(「展望」昭23・6〜8)の次のような一節を連想するのではないだろうか。「第二の手記」の、主人公大庭葉蔵の中学時代の回想部分である。

〈自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。〉〈絵だけは(漫画などは別ですけれども)その対象の表現に、幼い我流ながら、多少の苦心を払つてゐました。学校の図書のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を自分で工夫して試みなければならないのでした。〉〈美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依つて美しく創造し、或ひは、醜いものに嘔吐をもよほしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたつてゐる、つまり、人の思惑に少しもたよつてゐないらしいといふ、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さづけられ、れいの女の来客たちには隠して、少しづつ、自画像の制作に取りかかつてみました。/ 自分でも、ぎよつとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠してゐる自分の正体なのだ、おもては陽気に笑ひ、また人を笑せてゐるけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持つてゐるのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やつぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑ひの種にせられるかも知れぬといふ懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入の奥深くしまひ込みました。〉
 むろんこれは後年の小説の中の記述であり、また、高校時代の太宰を中学時代の〈大庭葉蔵〉に単純に重ね合わせることには慎重でなければならない。しかし、『人間失格』のプロットにあってこの〈陰惨〉な自画像が重要な役割を果たすことを考えると、今回の資料に繰り返し登場するこの画がある特別の意味を持って見えてくるように思われる。高校時代に抱え込んだ「負の自己像」は、画のイメージに姿を変えてその後の作者の一生を支配し続けることになる。それらはいずれも、〈おもては陽気に笑ひ、また人を笑せてゐるけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持つてゐるのだ〉というメッセージとして、太宰治の文学の底流に永く生き続けることになったわけである。
 二冊のノートの人物画像の合間に頻出する数多のサインは過剰な自意識の表象でもあろう。名前と共に The Hirosaki High School の署名が多く記されているが、そこからは一方で旧制高校スピリットの交錯した、屈折したプライドをうかがい知ることができる。時代思潮を前に挫折感を深くしていく側面と、もう一方では打ち消しようもない上昇志向と。その交錯の様態から、自意識に苦しむ一人の青年の姿が、まざまざと浮かび上がってくるように思われるのである。
 これに関連して、「英語」の(40左)の余白に興味深い書き込みがあるので引用しておくことにしよう。
橄欖之実が/ほろほろと/月の光に 散つて行く/TaRanTuLa!/蜘蛛に咬まれた若者は/空を見つめて 舞ひ狂ふ/哀れ悲しく/舞ひ狂ふ
 幻想的なニヒリズムが感じられる詩だが、こうした虚無感は陰鬱な自画像ともオーバーラップして、高校時代の太宰の一側面を再現して見せてくれているようだ。  高等学校時代の挫折感と自尊心の反復構造は、のちの『斜陽』(「新潮」昭22・5)に登場する直治の遺書に至るまで、太宰治のその後の文学の重要な核(コア)になっていく。その意味でも今回のノートは高校時代の実態をうかがい知るための重要な道しるべであり、太宰文学の原流を探る貴重な宝庫でもある。この二冊のノートの調査の進展と平行して、今後残りのノートの公開が進むことを切に祈る次第である。