【青森県近代文学の名品】

Vol.103 写真・佐藤一英と福士幸次郎碑 

  愛知県尾西市に、弘前市出身の詩人・福士幸次郎の碑が立っている。「福士幸次郎先生原日本考発想之地」の標柱碑と「尾張は日本のメソポタミヤであり、木曽長良の両川はチグリス、ユウフラテスにあたる」の記念碑である。
  撰文・染筆は詩人の佐藤一英(いちえい)(1899〜1979)。標柱碑は昭和30年11月5日、記念碑は翌年の5月26日、一英が有志の協力を得て玉野善福寺に建立した。

  佐藤一英は、愛知県中島郡祖父江町(現・稲沢市)に生まれ、早稲田大学高等予科文科在学中に詩人を志した。同期に吉田一穂、横光利一らがいた。大正11年、金子光晴、吉田一穂らとともに福士幸次郎の楽園詩社同人となり、また、大正期における名古屋地方の詩運動の中心を成した「青騎士」を春山行夫らと創刊。以後「日本詩人」や「文芸時代」にも詩や評論を発表する。
  昭和9年以降、日本詩の韻律(いんりつ)の研究に情熱を傾け、新韻律詩を提唱。その実践として「聯(れん)」と呼ぶ四行詩を作り、詩集『新韻律詩抄』(昭和10年)を世に問うた。岩野泡鳴、福士幸次郎の後を受け、日本詩の韻律の研究と実践に特異な足跡を残した。

  大正11年2月、福士幸次郎は尾張平野を訪ね、後に記念碑が立てられる尾西市玉野の善福寺に2カ月逗留(とうりゅう)、一英との交友を深めた。棟方志功が一英の長詩「大和(やまと)し美(うるわ)し」を「瓔珞譜(ようらくふ)・大和し美し版画巻」(昭和11年)に作品化する際も、福士が仲介している。しかし、新韻律論を意欲的に展開する一英は福士の理論と対立し決別。だが、一英の福士に対する敬愛の念は変わらず、昭和21年10月に福士が急逝した後も、記念碑建立をはじめ福士の顕彰に努めた。一英が『福士幸次郎著作集』下巻(昭和42年)の月報に載せた「『けっぱれ』―詩人の一語―」に次のような一節がある。
  「津軽の岩木の山の頂にいねて、『けっぱれ。ぱれ。』っと呼びつヾけたし。かく宣りし津軽男よ。ふるさとの子よ。のっぽうよ。」   写真は、生前の一英を福士幸次郎碑の前で撮影したものである。

(室長・櫛引洋一)
(平成21年5月14日付・毎日新聞「今週のお宝」掲載)

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写真 佐藤一英 福士幸次郎碑の前で
(撮影年月日不明)